Home › Category Archives › トルコ、地中海世界

ビュユックチェクメジェというところ

Büyükçekmeceイスタンブールの空港から西へ、ブルガリアに向かって30分ばかり車を走らせると「大きな入り江」が目に入ってくる。トルコ語に訳すとBüyükçekmece、その通りの名前の街がこの入り江沿いにある。マルマラ海にキラキラと輝く陽光のせいであろうか?「大きな宝石箱」という意味もあるようである。

以前はイスタンブールに住む富裕層が休暇を過ごす保養地であったのだが、東京に例えれば湘南海岸というところか?、最近では交通網の発達によって市内中心部へ一時間余りの距離なので住宅地として変貌しつつあるようだ。市内中心部へ短時間で走るメトロバスという高速バスもまもなく開通する。

Büyükçekmece promenade約4キロのプロムナードはカフェなどが並び、4月から10月ごろまでは、ニースやカンヌには比べるべくもないが、それなりに華やかな雰囲気を醸し出す。時刻ともなれば海からの風に乗ってコーランの響きが聞こえてくる。また週末には野菜・果物、オリーブオイルなどはもちろん生活に必要なモノはすべて揃うというバザールも開かれる。

皆さんは、(コジャ・)ミマール・シナンという人物をご存知であろうか?16世紀、スレイマニエ大帝のもとで、その100年の生涯で477もの建築物を残した「石の巨人」と称されるイスラムを代表する建築家である。ヨーロッパではルネッサンスまっさかりの時代を生きた人である。何から何まで欧米志向の日本人にはL・ダヴィンチを知っていても、シナンを知っている人は極めて少ないように思われる。この街のはずれにシナンの造った大きく美しいフォルムの石橋がかかっている。

ここでは時計の針がゆっくりと進む。

シュン太郎のこと

villas in Bodrum今年の9月、ちょっとした用事がありトルコのBodrum/Milasで過ごすことがあった。この地は西にエーゲ海、南に地中海を望む風光明媚なところである。季節ごとにフラミンゴをはじめ多くの渡り鳥がこの地を訪れる。付近にはギリシア遺跡もあり、手織りの絨毯の産地としても知られる土地でもある。そんな「地上の楽園」ともいえる土地柄ゆえ、海を見下ろす小高い丘に外国人、特にイギリス人が別荘を建て、一年のうち3〜4ヶ月の余暇を楽しんでいる。 

vicini dell'albergo

Bodrumの別荘地

入り江のシュン太郎たちこの地のホテルの多くがそうであるように、雨がほとんど降ることがないためレストランは屋外の庭にある。私が滞在したホテルのそれは海辺の小さなヨットハーバーに隣接していた。夕食をとっているとき、ふと気がつくと私のテーブルから3mくらい離れたところに大きな犬がじっと私を見ながら座っている。雑種ではなくレトリバー種であることには間違いはないが痩せこけている。「お腹が空いています、なにか食べ物をください、でも初対面の貴方に近づいてもいいですか?怒りませんか?なにか投げつけたりしませんか?」と私に話しかけているように思えた。皿にあったチーズを切って食べさせようと思ったが近づいてこない。誰かに石を投げつけられたり、追い払われたりした怖い思い出がきっとトラウマになっているのであろう。私のほうから持っていって食べさせてやった。少し後ずさりしたものの、余程、空腹であったのであろう、すぐにチーズに食らいついた。翌日からこの犬との距離は少しずつ縮まった。私はこの大きな犬を「シュン太郎」と名づけた。 

ウエイターの話によると、もともとはどこかの別荘で飼われていた犬だとのこと、飼い主がその物件を手放したか、なにかの理由で戻ってこないためホームレスになり、食べ物にありつけるホテルのレストラン近辺に住み始めたとのこと、そんな境遇の犬がここには数え切れないほどいると聞いた。人間のエゴ、いい加減さがシュン太郎に現在の生活を強いている。さいわいにこの地の冬は温暖だ、逞しく生き残れよ!

11月10日

今から73年前のこの日、正確にいえば午前9時5分、多くの人々に敬愛された男がこの世を去った。

18世紀以降、連戦連敗、領土を喪失し続ける祖国、第一次世界大戦後のセーブル条約でイギリス、ロシア、フランス、イタリア、オーストリアなどがハイエナのようにこの国を貪ろうと寄ってたかったものの、辛うじて大英帝国の中東、インドでの権益を守らんがための「対ロシア緩衝地区」政策の一環として生きながらえていた祖国、そんな時代にあってこの男に大きな希望と夢を与えたのが日本の明治維新の成功と日露戦争の勝利であった。その後もこの国を属国として支配しようとするイギリスのロイド・ジョージ、そしてその手先となって侵略を続けるギリシアやロシアの干渉に抵抗し続け、ついにローザンヌ条約を勝ち取り、近代化を推進した男、彼の存在がなければこの国が「民族自決主義」に目覚め、イスラム国家として世俗主義(政教分離)に目覚めることは大きく遅れたであろうし、大英帝国の崩壊の大きなキッカケをつくったのも彼の存在であることは間違いない。

彼の名は、ケマル アタチュルク

 

 

来し方、往く末(12)

夕食後、マルマラ海の風に吹かれながら水タバコをくゆらす。ライトアップされたブルーモスクから聞こえるコーランの響きに誘われミナレットのまわりをウミネコが舞う。その光景を見ながらわが来し方を振り返る。

Sultanahmet Camii in the night

ウミネコは自由に飛ぶ。

大学を卒業後の10年間のサラリーマン生活から足を洗い独立開業、ヨーロッパのファッション雑貨の輸入販売やイベントの企画制作といった仕事を始めたのは「時間に縛られたくない。自分の時間を自由に使い、自分の行きたいところにいつでも行けるような仕事をやりたい。」といった単純な動機であったような気がする。家族はじめ周りの人たちにずいぶん心配をかけたが、開業のタイミング良く、日本はまさに高度急成長の直前、その後は順風満帆に業績を伸ばすことができた。そして・・・バブル崩壊、意気消沈の日々を送る私に友人たちは優しかった。自分の事業も大変なのに時間を割き、あらゆる角度からいろいろ応援もしてくれた。「おかげさま」は私の座右の銘である。

「家族や友人の反対を押し切り、上海にやってきたのはなぜ?」幾たびとなく自問自答。若いころから「鉄砲玉」だの「糸の切れた凧」とよく言われてきた。自分では家族に対する思いは人一倍もっていると自負しているのだが・・・実際に「今頃、どうしているかな?」と常に思っている。「それなら日本に帰って家族に囲まれて老後を暮らせばいい。」という人もいるが、私の場合、その気持ちと「私がこうありたい。」という気持ちが必ずしも同じ方向を向いていないのである。

今年、誕生日を迎え、四捨五入すると70歳という年齢になった。人は誰も自分の意志とは関係なく一人で、この世に生をうけ、そして自分の意志とは関係なく一人でこの世を去る。自分の意思で生きていけるのはほんの僅かな時間、そして私に残されている時間はあまりない。まさに「少年易老学難成、一寸光陰不可軽」である。この言葉に触れるたび、ずいぶん道草を食ったなぁ。無為な時間をすごしたなぁ。」と忸怩たる思いがある。

現在は上海に居る。7年目を迎えまがりなりでも食ってはいけるようにはなった。「でもこれまでの人生で経験したことのないような意味不明、不透明な事柄にストレスを感じる毎日を続けることにどれほどの意義がある?中国(人)に対する己の思い入れや期待感を裏切られ、その理由を探り、納得できたとしてどれほどの意味がある?じゃぁ、これからの人生をどう生きる?」と自分に問いかける。サラリーマンで駐在しているのなら余程の事情のない限り4,5年もたてば会社が転勤の辞令を発してくれる。私の場合は自分で決める必要がある。

「日本人である以前に地球人。」 言うまでもなく行っていないところの方が遥かに多い。自分の往く末をおおらかな気持ちで探り、見つけ出そう。

来し方、往く末(10)

上海に向かうトルコ航空機、機内誌をパラパラ捲っていて映画「トロイ」のプログラムが目にとまった。いうまでもなくホメロスの叙事詩「イリアス」のトロイである。早速、見ることに・・・ ヨーロッパで学んだ者ならイリアス、オデッセイは誰でもが知っている。だからトロイ戦争は、日本で言えば、時代こそ違え源平合戦のようなもの。となればトロイのヘクトールはさしずめ源義経??

トロイとスパルタによる無血同盟締結の帰途、絶世の美女といわれたスパルタ王妃ヘレンと恋におちたトロイの王子パリスは彼女を略奪。激怒したスパルタの王メネラオスはミュケナイの王アガメムノンとともにトロイを攻める。ヘクトールを倒したアキレウスもパリスの矢によって倒れ、難航不落のトロイの城壁を前に一時は敗北するかに見えたギリシアの連合軍も「トロイの木馬」に忍び込んだ兵が城門を解放、一気に城内に攻め込み遂にトロイを倒す、というストーリー。・・・・それにしてもアキレウスにブラッドピットとは・・ミスキャストではないのかなぁ?? いやこれは映画の話。

relief in the garden of Istanbul Archaeology Museums

ギリシア建築の装飾


チャナッカレ海峡がエーゲ海にそそぐ小アジア側にこのトロイはある。イリアスによるトロイの存在を信じたハインリッヒ・シュリーマンによって発掘された遺跡が残る。いや残骸がある。なぜなら当時の国家犯罪とも言える行為によって、トロイから発掘された文化遺産はトルコから散逸し、その一部は行方すら分かっていない。歴史は物語る、「第三者によって踏みにじられたすべての帝国の末路は惨めなものである。」 ここ中国で清朝が滅んだときのように・・・・